眼横鼻直(がんのうびちょく)永平広録
この語ほど易しそうで難しい禅語は他にありません。眼は横に、鼻は直(まっすぐ)に!一体何を意味するのでしょうか。
曹洞宗の開祖道元禅師(1200~1253)は当時の日本仏教に飽きたらず、中国(宋の時代)に渡り、禅要を悟って日本に帰国します。そして先ず、禅の根本道場として興聖(こうしょう)寺を建立します。その開設に臨んでの上堂(修行者に対する説法)の一節が『永平広録』にあります。
只だ是れ等閑(とうかん)に天童(てんどう)先師(せんし)に見(まみ)えて、当下(とうげ)に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞(まん)せられず。便乃(すなわ)ち、空手(くうしゅ)にして郷に還る。所以(ゆえ)に一毫(いちごう)も仏法無し。
等閑とは運に任せる意で、不思議なめぐり会いを云います。一毫とはほんの少しの事。不思議なめぐり会わせで天童(てんどう)如浄(にょじょう)禅師に会う事が出来、修行させて頂いた。お陰で、そのまま、あるがまま、眼は横に、鼻は直にある事をしっかり把握する事が出来、余計な戯論にまどわされる事もなくなった。思えばわざわざ中国まで出掛けて行ったが何の土産もなく、手ぶらで帰って来たようなものです。だから、私の手元には一かけらの仏法もないと云うわけです。
眼横鼻直、読んで字の通り、あたり前の事実を、ありのままに見て、しかも、そのままである真実を頷(うなず)き取る。道元禅師でさえ四年の歳月がかかったのです。易しくて、難しい事実です。私達は果たしてすべてを、見るがまま、聞くがまま、あるがままに受け取っているでしょうか。
一休禅師(1394~1481)に面白い話があります。
ある日、一休さんは一本の曲がりくねった松の鉢植を、人の見える家の前に置いた。「この松をまっすぐ見えた人には褒美をあげます」と、小さな立て札を鉢植に懸けたのである。
いつの間にか、その鉢植の前に人がきができた。誰もが曲った松と立札を見て、まっすぐ見えないかと思案した。だが誰一人として、松の木をまっすぐ見ることはできなかった。
暮れがた、一人の旅人が通りかかった。その鉢植を見て、「この松は本当によく曲りくねっている」と、さらりと一言。それを聞いた一休さん、家から飛び出てきて、その旅人に褒美をあげたという。
その旅人だけが松の木をありのままに見たのである。他の人は一休さんの言葉に惑わされてしまった。褒美に目が眩み、無理に松の木をまっすぐ見ようとしたのである。(『大法輪』昭和六十三年二月号、藤原東演「臨済禅僧の名話」参照)
お経を見る事には非常に大きな功徳があり、また、声に出して読むと更に大きな功徳があり、更には書き写す事で非常に大きな功徳があるといいます。お経を一文字一文字心をこめて書き写すのは仏像一体一体を刻む事と同じ事なのです。どんな人々にも本来清浄な心があり、自らの手でお経を書写することにより浄菩提心((覚りを求める心))を発見する ことがお写経の最大の功徳であるとされています。
さあ、どうでしょうか。私達は「眼横鼻直」のように、あるがままに受け入れているのでしょうか。他人の意見、自分の主義主張にとらわれて、本当の姿を見失っているのではないでしょうか。眼は横に、鼻は直に、じっくり味わいたい句です。